江戸時代の府中町は300軒の大町で、他の町と比較にならないほど大きな町でした。また、府中町肝煎の町役人料は嘉永4年時(1851年)1067匁で、町肝煎として最高の役人料が支払われていました。ほかにも何かと特別な扱いを受けていたようです。広い町内五つの地区に分かれており、それぞれ川淵通、浜通、立丁通、女郎浜通、七軒町通と呼ばれてきました。
五月の青柏祭の折には三つある山町の一つとして府中町のでか山の世話をしてきました。山町となった理由についてははっきりとしません。一説には、天正10年(1582年)に前田利家が越中の魚津城を攻めた時や宇出津の棚木城などが上杉側についた長景連に攻められた時に船をだして利家軍に協力し、その功績から四十物(水産半加工品)取引を独占する特権を与えられ、他の町より経済的に豊かだったためではないかと言われています。
江戸時代の府中町肝煎には鍋屋治兵衛、上田屋長兵衛らがいます。
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