「まちの寺」紹介

@真宗大谷派 常福寺
                              山号:西佛山   所在地:相生町

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沿革 実如上人(1458^1525)本願寺9世実如上人(1458^1525)より下付された方便法身尊像(ご本尊)とその裏書が今ものこっていますが、その裏書によると、常福寺の草創は、明応5年(1496年)に七尾城山の麓、鹿島郡矢田郷府中おいて開かれた真宗道場のようです。現物がのこっていて確認できる能登で一番古い裏書です。七尾あたりでは一番古い時代に成立した真宗道場だったのかもしれません。1496年といえば、本願寺8代蓮如上人がまだご在世の頃で大阪に石山本願寺を建立された年です。 加賀藩に提出された貞享2年(1685年)の書き上げでは、享禄2年(1529)年に釈祐西が開基したとあります。書き上げの開基年というのは、何を基準にしているのかよくわかっていません。御本尊の裏書の年としたお寺もあるでしょうし、お寺にのこっている一番古い記録に基づいた場合もあると思います。常福寺の場合は、寺号を得た年なのでしょうか。書き上げ以外に享禄の年号のものはのこっていませんので、はっきりしていません。 前田利家の能登入部後、他の多くの真宗寺院とともに新しい七尾の町のはずれ、道場町(御坊町)に移転しました。当時の地図で見ますと狭い敷地に押し込んだように見えます。真宗寺院を管理する意図があったのではないかと思います。集められたお寺のご門徒は市街地周辺の農村部にいて、ご門徒と引き離すことも目的だったのかもしれません。 その後明和年間(1764^1772)に火事で焼け、当時触頭寺院であった長福寺へ助けを求める手紙がのこっています。天明2年(1782)に現在の地、中小池町(相生町)に移転して再建されました。田圃を埋め立てて建てられたようです。 その時の本堂が能登半島地震で被災した本堂でした。七尾市内で最も古い木造建築の一つでした。棟札によって建立年が確認できます。地震で全壊の被害を受けてから5年後の平成24年(2012年)に門信徒の皆様のお力によって本堂は再建さました。旧本堂のケヤキの柱、梁、長押などを再利用しています。 安土桃山時代(1573^1602)ころの住職釈祐西は七尾城主畠山義慶の子と言い伝えがあります。実際どうなのでしょうか。寺紋は畠山氏の丸に二つ引き両紋ですので、何かゆかりがあるのではと思います。七尾城主の書状や当時の連歌の断簡など、貴重な戦国時代の七尾ゆかりの品も伝来しています。 また、江戸時代初期の住職釈祐念は本願寺教如上人に近い存在だったと言われ、東末寺(現在の金沢別院)の看坊を命ぜられて金沢へ移り、金沢にも常福寺を建立しました。金沢市小将町の常福寺がそうです。 境内の墓地には元禄時代の俳人大野長久や豪商塩屋一族(岩城家)の墓があります。 平成24年(2012年)12月、同じく能登半島地震によって被災した郡町西佛寺と合併し、真宗大谷派西佛山常福寺として再スタートしました。旧西佛寺境内は、東廟所として墓地及び参拝接待所として整備されました。 浄土真宗の聞法道場として実るようにと住職・門徒共に歩むお寺として再出発です。

■常福寺境内散策



咲き誇るピラカンサと鐘楼


相生町通りにあります


■所蔵物紹介
 

花押手鑑軸

 前田利家、利長、利常の加賀藩三代や、江戸幕府の二代将軍徳川秀忠など十四人の武将の花押を表装した掛軸です。戦国時代、江戸時代初期を彩る豪華メンバーがそろっている貴重な史料です。順に武将名を紹介しますと、前田三代に次いで、七尾城主畠山義綱、義綱の奉行人井上英教、長連理、上杉景勝とその武将で能登侵攻時穴水城主であった長沢光国、前田利家と覇を争った佐々成政などなど。そして一番下には能登畠山氏滅亡直前の七尾城主畠山義慶が書いた古文書が表装されています。表装された時期などはまだはっきりしていません。この掛軸の調査を担当された東四柳教授は北国新聞の記事の中で「時代の表舞台を飾った著名な武将の花押がこれだけそろった史料はきわめて珍しい。筆跡からは人物像をうかがうこともできる。花押の元になった書状の内容が分からないのが残念だが、郷土史研究の上で意味のある史料だ」と語られています。
 
                

 

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