畠山時代 本七尾の寺院群


 天正9年(1581年)織田信長により能登一国を与えられた前田利家は、まず畠山氏が築いた城山の七尾城に入りました。しかし、時は既に山城の時代ではなく、七尾を統治するためには平野部の城が適しました。そこで、利家は現在の小丸山公園の地に新たに城を築くことにしました。それとともに当時、城山の裾野一帯に広がっていた城下町を新しい城の下へと移動し、新たな城下町を作ったのが現在の七尾の旧市街地の始まりと推測されます。 
  明治28年、38年の大火などたび重なる大火で古い建造物はあまり残っていませんが、現在でも七尾旧市街は、縦横に規則正しく道がのび、往時の城下町の町割りの様子がはっきりと残っており、これは貴重な文化遺産と言えます。

 話は畠山時代の城下町、本七尾の話に戻ります。今までの話でお気づきの方もおられると思いますが、現在の旧市街にある数多くの寺院はみな畠山時代には現在の場所にはありませんでした。それでは、いったいどこにあったのでしょうか。それは現在の矢田郷地区、徳田地区を見ればすぐに分かります。今、矢田郷地区、徳田地区、それも旧市街地に近いところには本当に皆無と言っていいほど寺院がありません。例外として、八田、江曽、飯川などには寺院が残っていますがその他の矢田、古府、本府中、藤野、八幡、細口、白馬、などの広大な地域には寺院がありません。これは真宗王国と言われ、一在所に一か寺以上真宗寺院があるのが普通である能登地域では考えられないことです。もうお分かりのように現在、町の中にある寺院は、みな本七尾から前田利家の旧七尾城から新七尾城(小丸山城)への移動に伴って移転させられました。多くの真宗寺院は当初、道場町、のちに御坊町とよばれた今の郡町、山本病院がある細い道に集められました。その数、推定で7か寺。すぐ裏には曹洞宗の霊泉寺が、隣の金屋町には後に浄泉寺もよせられました。そして、光徳寺などの有力寺院は町の中に比較的大きな寺地をそれぞれ与えられたようです。町の中に集められた理由は、前田利家が、越前府中や石山合戦での一向一揆、本願寺門徒との戦いの経験から、七尾を治めるにあたって真宗寺院の統制が重要視されたためでしょう。つまり畠山時代以来の有力な真宗寺院をその基盤である門徒在所から引き離し、一箇所に集めておけば、目を光らすことができるということなのでしょう。小島町の山の寺寺院群は少々、事情が違い、禅宗、浄土宗など戦国時代から大名の保護を受けていた寺院が多いので金沢の寺町のように真宗以外の寺院は七尾城(小丸山城)の防御線として小島の山に集められたのです。
 城山の麓などから真宗寺院だけでも12か寺もの寺院を移転させるというのは大変な事業だったでしょう。しかし畠山時代後期の内乱や上杉謙信の侵略の兵火、その後の織田信長軍と上杉方についた旧畠山家臣の戦乱などで、おそらく本七尾の寺院の多くは、前田利家が七尾に入った時、焼けてしまっていたか、かなり荒れてしまっていたことは確実でしょうから、この新七尾町への移転は利家による寺地、屋舗の寄進もあって、比較的スムーズに進んだのではと推測します。 

 貞享2年(1685年)に各寺院から加賀藩にだされた寺社由緒書上のうち御坊町へ移転した真宗寺院の由緒全てに共通の文章があります。ここでそれを紹介します。




     一、一通居屋舗  御免状    但道場拾壱ケ寺
                     一紙面内三ケ寺西方
       右者、従 大納言様能州御入国、本七尾御城下ニ居屋舗
       拝領仕、御城当七尾江御引越被為成候砌も拝領仕、其後
       中納言様御代元和弐年御検地ニ御改被為成、如前々御
       免被為成、則 御印折紙頂戴仕申候。

     一、一通元和六年御検地御免状  但道場拾壱ケ寺
                     一紙面内三ケ寺西方
       右弐通 中納言様御在小松之砌 御印紙御改ニ付、御
       奉行前田主膳・横山右近指上置申候。




 この記述は御坊町へ移転しなかった寺院の由緒書上には見られません。(理由は寺の土地が拝領地の場合とそうでない場合は書面が違うためかもしれませんがはっきり分かりません。)見て分かるように、真宗寺院11か寺が大納言、つまり前田利家入国の際に本七尾、つまり利家が当初、入城した城山の七尾城の城下町に寺地と屋敷を寄進され、その後前田利家が新しい七尾町(ここでは本七尾に対して当七尾と書かれている)に移転する際にも寺地と屋敷を寄進されたと書かれています。次の文にある中納言とは三代目加賀藩主前田利常のことですが、元和2年(1616年)の検地の際に、大納言から授かった御免状を確認してもらい、そして御印折紙をいただいたということが書かれています。次に、元和6年(1620年)にも検地があり、御免状をいただいたと書かれています。この文書によって、本七尾から新しい七尾へと多くの寺院が移転させられたことがはっきりと分かります。






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