■塩屋五郎兵衛家  

大野長久オオノチョウキュウ (?〜1702)
三代塩屋五郎兵衛。父が大野屋出身のため大野姓を名乗ったと思われる。元禄期七尾俳壇の中心人物で貞門派の俳句をたしなんだ。元禄15年(1702年)に60余才で亡くなっている。俳書『欅炭』を残している。  →大野長久のコンテンツへ


岩城長羽イワキチョウウ (?〜1751)
五代塩屋五郎兵衛。大野良長の子。大野長久の孫にあたる。幼少の頃大野亀助と名乗り、『俳諧三年草』の序を書いている。享保期の七尾俳壇の中心人物の一人であり、従弟岩城司鱸と共に多くの俳書に名を残している。所口町町年寄をつとめた。 
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岩城宗寛イワキソウカン (1733〜1809)
七代塩屋五郎兵衛。塩屋一族の重鎮的な存在だった人物で所口町町年寄をつとめた。唐棣翁・八郎兵衛とも言う。蘭医として有名な京都の医者小石元俊との交際が知られている。横川巴人の『夢』によると、元俊をして「能登に唐棣翁という賢人がある」と言わせたそうである。また、元俊からの手紙によると、宗寛は海戦に関する知識が豊富で海中で鎖を用いる戦法などについて書いている。文化6年(1809年)に76歳で亡くなり、相生町常福寺に岩城宗寛翁之墓と刻まれた大きな墓が現存している。 →岩城宗寛のコンテンツへ


■塩屋清五郎家


岩城司鱸イワキシロ (1695〜1753)
名は令徳。字は子憐。また、代明と号す。大野屋に生まれるが、塩屋名兵衛の養子となる。後に塩屋清五郎家の初代となり、能登一円の煎海鼠を長崎や大阪の会所に納める御用商人として財を成した。すぐれた俳人でもあり、俳号は司鱸。また、建部綾足と交友関係があり、彼の日記に登場する。 →岩城司鱸のコンテンツへ 


岩城泰蔵イワキタイゾウ (1732〜1776)
名は白。字は子明。若くして父を亡くし、二代塩屋清五郎となる。筑紫の亀井南冥と交際し、大成を願って弟穆斎を入門させている。 →岩城泰蔵のコンテンツへ 


岩城穆斎イワキボクサイ (1747〜1788)
名は真。字は公淳。所口の賢人と呼ばれた。兄泰蔵の跡を継ぎ三代塩屋清五郎となり、幕府の御用商人として煎海鼠の取引をした。岡白駒・亀井南冥・皆川淇園のもとで学んだ後、所口に学塾臻学舎を開き七尾の文化発展に大きく寄与した。 →岩城穆斎のコンテンツへ


岩城楽斎イワキガクサイ (1774〜1840)
名は豹。字は文卿。別名徳居義蔵と言った。泰蔵の長男で穆斎の養子。四代塩屋清五郎となる。清五郎家としては初めての所口町町年寄となり町役人の頂点に立つ。隠居して長男西陀に家督を譲るも先立たれている。享年66歳。叔父穆斎と同じく京の学者皆川淇園の門人。 →岩城楽斎のコンテンツへ


明々尼メイメイニ (?〜1862年)
楽斎の妻。名はゆみ。伊勢参りに行った記録が残っている。彼女の死の翌年文久3年(1863年)に、清五郎家の大番頭松屋仁左衛門(俳号竹塢)によって楽斎・明々尼の俳句を刻んだ句碑が小島町妙観院の外に建てられた。 句碑 →明々尼のコンテンツへ


岩城西陀(土偏に它)イワキセイダ (1798〜1836)
名は粛。字は恭侯。別号忘我堂主人・禊川漁人・秋臓園。また、南呂とも号す。楽斎の長男。五代塩屋清五郎となる。町年寄をつとめる。頼山陽など多くの京阪文化人と交流したことで知られる。享年38歳。彼の死に際して、篠崎小竹・浦上春琴・後藤春草等が詩を送っている。 →岩城西陀のコンテンツへ


岩城寛太郎イワキカンタロウ (1825〜1843)
西陀の長男。父西陀の跡を継ぎ六代塩屋清五郎襲名するも療養のため京に滞在中に亡くなる。享年18歳。尼が谷にある岩城宗寛と彫られた墓はこの寛太郎の墓である。常福寺にある岩城宗寛翁の墓は七代塩屋五郎兵衛の墓。 →岩城寛太郎のコンテンツへ


岩城木聖(木偏に聖)イワキテイ (1811〜1855)
楽斎の次男。通称茂三郎。または、礼蔵、松堂とも号す。楽斎の次男。七代塩屋清五郎を継いだ。尼が谷の墓石には岩城木聖君之墓と刻まれているが、「木」と「聖」は別個の感じではなく、「木へんにつくりが聖」で「てい」と読むのではないかと思う。十代のころから大阪の漢学者篠崎小竹の門人となり儒学を学んでいる。兄西陀に同伴して文化人サロンに出入りしていたと思われる。所口町町年寄をつとめ、また、初代清五郎とその妻の100回忌の法事もしている。享年44歳。 →岩城木聖のコンテンツへ


岩城文蔵イワキブンゾウ (?〜1865)
楽斎の三男。名は方。方次郎とも称した。木聖香iていがい)と号す。木聖高ェ誰であるかについて今まで諸説があったが、木聖高ニは文蔵の号である。塩屋文蔵が屋号で中ノ棚通りに店を構えていた。小石元瑞とは親しい関係にあり、元瑞の日記『日省簿』に名前が何度か出てくる。兄西陀・木聖とともに度々上京していたようである。岩城松石翁の墓と刻まれた彼の墓は、相生町常福寺に現存する。慶応元年(1865年)6月死す。八代清五郎の父と推定される。 →岩城文蔵のコンテンツへ


岩城清五郎イワキセイゴロウ (?〜1904)
名は雄。通称礼三郎。七代清五郎の長男。八代塩屋清五郎。墓籍によると、彼が岩城文蔵の墓の持ち主であり、墓石に「不肖雄」とあることから父清五郎の亡き後、岩城文蔵を父のように慕っていたようである。慶応4年(1868年)には名字を許可され、公式に岩城清五郎を名乗っている。町役は、地子町肝煎列・蔵縮役制産方兼帯を勤めている。
最後の清五郎は、明治37年(1904年)に亡くなったが、
後に子孫が名跡を継いで妙観院前に岩城穆斎を記念した石碑を建立している。

■大野屋

融源ユウゲン (?〜1630)
大野屋の元祖。元は尾張国の武士だったという。能登へ移住している。


大野屋五郎右衛門オオノヤゴロウエモン (?〜1767)
大野屋六代目。通称宗兵衛。戒名は観相慈善。蔵宿・町年寄など重要職を歴任している。彼の死後、塩屋味右衛門家に養子入りしていた息子をはじめとする塩屋一門が連名で養子善次郎が蔵宿職を引き継げるよう所口町年寄衆中・肝煎衆中に保証書を提出している。


岩城平右衛門イワキヘイエモン (1741〜1807)
大野屋七代目大野屋平右衛門。名は恒。字は子基。通称善次郎。戒名は湖漣宗庵。岩城穆斎こと3代塩屋清五郎の兄。父の実家大野屋へ養子として入り七代目を継ぐ。弟の紹介で45歳の時に皆川淇園の門を叩く。所口町町年寄を勤めている。


岩城鑾崖イワキランガイ (1770〜1823)
大野屋八代目。大野屋五郎右衛門。名は紀。字は君綱。戒名は鑾崖宗翁。19歳の時に皆川淇園に入門。淇園の門人帳に、父平右衛門や横川長洲とともに岩城平蔵として名前が載っている。また、長らく岩城穆斎と混同されていた人物でもある。鶴来の儒者金子鶴村の『能登遊記』に登場する。 →岩城鑾崖のコンテンツへ


岩城安義 (?〜1850)
大野屋九代目。大野屋五郎右衛門。別名岩城九皐。戒名は安義宗穏。町横目列・祐筆列などの町役人を歴任。寺小屋の先生として慕われ、徳翁寺前に筆塚がある。
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■師・友

各務支考カガミシコウ (?〜1731)
俳人。松尾芭蕉の弟子で蕉門十哲の一人。芭蕉最後の大阪への旅にも同行している。全国を旅して俳句を広め、美濃派の隆盛に尽力した。初代清五郎こと司鱸の俳句の師匠で七尾で対面しているそうな。


暮柳舎希因バクリョウシャキイン (1688〜1750)
金沢の俳人。伊勢派俳人の第一人者と仰がれる北陸俳壇の重鎮。希因門からは麦水・二柳などの俳人が輩出している。弟子であった涼袋(建部綾足)が七尾へ行った時に岩城長羽のもとで世話になったことに対して礼状を書いている。


建部綾足タケベアヤタリ (1719〜1774)
津軽の人。諸国を旅して、俳句・和歌・国学・紀行・物語・随筆・絵画などさまざまな分野で異才を発揮した人物。希因、賀茂真淵ら優れた師について学んでいる。司鱸の友人。著作に『西山物語』『本朝水滸伝 』など。


亀井南冥カメイナンメイ (1743〜1814)
江戸時代中期の儒学者・漢詩人。筑前(福岡県)の町医者の家に生まれる。名は魯、通称主水、字は道載。抜擢され、福岡藩の侍講となり「政事」と「学問」の一致を説いたことで知られる。二代清五郎、泰蔵と交友関係にあり三代清五郎こと穆斎を弟子とした。


皆川淇園ミナガワキエン (1734〜1807)
江戸中期の儒学者。京都で儒学の講義を開始し、門弟1313人の名前が門人帳に数えられる。文化3年(1806)私立大学の 先駆ともいえる弘道館を京都に設立した。七尾出身者の弟子には三代清五郎こと岩城穆斎・岩城鑾崖・四代清五郎こと岩城楽斎及び横川長州,らがいる。


小石元俊コイシゲンシュン (1743〜1808)
京都の医者。淡輪元潜・永富嘯庵に医学、皆川淇園に漢学を師事し、江戸で杉田玄白・大槻玄沢と交わり、解剖も数度主宰し、医学塾究理堂を開いた。門人には、七尾の横川沖蔵(中蔵)がいる。岩城穆斎の友人で彼が病に倒れた天明7年(1787年)往診のために七尾に向かっている。


小石元瑞コイシゲンズイ (1784〜1849)
小石元俊の子。京都の医者。漢詩文を能くし、患者であった頼山陽らと京都で文学サロンを形成していた。西陀もその一員であった。元瑞と清五郎家族の交流は、西陀の死後書かれた元瑞の『日省簿』によって明らかになる。楽斎を携え孫清五郎(寛太郎)が訪問し、食事や飲酒したことが記録されている。同じ、天保11年(1840年)秋、弟子安田元蔵により楽斎の死が知らされ、一驚痛惜と書かれている。天保13年(1842年)には京で療養中であった六代清五郎の寛太郎が18歳で亡くなる。その直後から楽斎の三男文蔵が来診。翌年には寛太郎の一周忌の記述がある。翌々年には、七代清五郎こと礼蔵が海鼠を持ってきたとの記述がある。これによって小石家と清五郎家は数代に渡っての深い交際関係にあったことが分かる。七尾出身の弟子に安田元蔵・横川昌元がいる。


頼 山陽ライサンヨウ (1780〜1832)
江戸後期の儒者、史家。安芸国(広島県)の人。名は襄。尾藤二洲に師事。京都に塾を開いた。詩文書画の名が高く,梁川星巌、大塩平八郎ら多くの文人墨客と交わった。七尾城で上杉謙信が歌ったとされる有名な「霜は軍営に満ちて」の詩は頼山陽の『日本外史』に拠る。山陽の母の日記である『梅シ日記』に、たびたび岩城西ダが登場し、小石元瑞らサロンのメンバー面々と丸山や木屋町の座敷での舞妓遊びや詩を読んで遊んだことなどが書かれている。そこから、西陀はサロンのパトロン的な立場であると読み取れる。また山陽は西陀のために『秋風帖』に漢詩や山水画をよせたり、西陀宛に書いた漢文の額を残すなどもしている。


篠崎小竹シノザキショウチク (1781〜1851)
大阪の漢学者。頼山陽が広島から上洛した時最初に頼ったのが小竹だった。小竹は穏健な性格で社交好きでもあったため、関西文化人の中で一目置かれる存在だった。後藤松蔭は娘婿。西陀の弟で七代清五郎を継いだ岩城礼蔵の名が門人帳に見える。『秋風帖』に漢詩をのこしているほか山陽亡き後、西陀の漢詩の師となり添削を行っている。


浦上春琴ウラガミシュンキン (1779〜1846) 
江戸後期の画家。浦上玉堂の長子。名は選。十六才の時父の脱藩とともに江戸へ行き画塾に通った。二十代には京都に在住し、オーソドックスな画風は竹洞に山水は梅逸に迫ると評された。岡田米山人・半江らと深く交友し、詩文も巧みで山陽と深交があった。『秋風帖』に漢詩や絵をのこしている。また、七尾に西陀を訪ねて遊びに来ている。


田能村竹田タノムラチクデン (1777〜1832)
江戸後期の文人画家。豊後の人。名は孝憲。字は君彝。竹田村の岡藩藩医の家に生まれたが医業は継がずに、22歳の時に藩校由学館の儒員となっている。20代から江戸や京坂の文人たちとひろく交流をもった。文化10年(1813年)職を辞してからは、詩書画を中心とする生活にはいり、多くの文人たちと広く交流しながら、中国文人画の正統を学ぶことにつとめた。『秋風帖』に漢詩や絵をのこしている。


後藤松陰ゴトウショウイン (1797〜1864)
美濃の人。 山陽が京都で私塾を開いたときの最初の弟子。篠崎小竹の女婿となり大阪に住んだ。山陽の死後、その遺稿を公判したり、若い弟子達を統率するなどした。


小田海僊オダカイセン (1785〜1862)
江戸後期の画家。名は瀛、字は巨海、通称良平、百谷・海僊と号す。天明5年(1785年)長門国赤間関(山口県下関市)に生まれる。上京して呉春の門に入り、さらに頼山陽に教えを受けて南画に転じた。


岩崎鴎雨イワサキオウウ (1804〜1865)
近江の漢学者。サロンのメンバーとして西陀と交流した。


頼 聿庵ライリツアン (1801〜1856)
頼山陽の長子。サロンのメンバーとして西陀と交流した。


■七尾の文化人



横川長洲ヨコガワチョウシュウ(1764~1828)
通称は文二、または中蔵。名は温。字は子良。七尾の医者。岩城穆斎の臻学舎で学ぶ。おそらく穆斎の勧めで京都の漢学者皆川淇園のもとで儒学、医師小石元俊のもとで医学を修めている。帰郷後、一本杉町で開業。家塾保合堂を開く。皆川門下の同門金子鶴村・岩城鑾崖との交遊が知られる。長洲以降、横川家は横川巴人をはじめ数々の優秀な人材を輩出している。


安田竹荘ヤスダチクソウ(1807~1871)
通称元蔵竹荘は号。七尾の医者。横川長洲の晩年に弟子入りしている。上京して蘭方医小森桃塢に医学を学び、藤森晋山から蘭学を学んだ。宇田川玄真・藤田好直にも師事している。再度上京した際には、小石元瑞・新宮涼庭に師事し、また、元瑞の紹介で漢学者篠崎小竹の元で漢学も修した。安政元年(1854年)に能登で初めて種痘した人物として知られている。藩主に請われて藩校明倫堂にて講義したこともある。数万巻にも及ぶ彼の膨大な蔵書は「香島文庫」の名で知られた。







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