江戸時代、みそぎ川沿いには塩屋をはじめ越中屋など豪商の屋敷が立ち並び、みそぎ川に面した桟橋からは、日本各地への荷を載せた小船がひっきりなしに港へ向かって行き来していた。下の画像の中に見える赤い橋、仙対橋はかつて橋のたもとにあった塩屋の屋舗にちなんで「しゅうや(塩屋)橋」と呼ばれていた。

みそぎ川 江戸時代、七尾に岩城姓を名乗る塩屋という商人の一族が存在した。この一族は江戸時代を通して町年寄など町の重職を歴任して七尾の町を支え、また、数多くの俳人を輩出して文化・学芸面でも多大な貢献をした。塩屋一族の中でも特に塩屋清五郎家は、七尾湾周辺の煎海鼠(いりこ)を一手に扱う幕府の御用商人として活躍し、また京の儒者皆川淇園頼山陽など当時一流の文化人らと深い交友関係を持っていたことで知られる。三代清五郎こと岩城穆斎は『所口の賢人』と讃えられている。
 文化年間(1804年〜)までは塩屋宗家五郎兵衛家、それ以降は塩屋清五郎家の当主が代々所口町(七尾町)町年寄を代々つとめている。
 塩屋清五郎は、江戸時代の七尾を語るにはなくてはならない存在である。しかし、明治時代以降、時代の変化の荒波の中で、塩屋の名は記録の上から姿を消してしまう。そして、現在。残念ながら塩屋一族の存在は、七尾市民の記憶からほぼ完全に消え去ってしまっている。
 そこで、塩屋一族を顕彰すべく、先人の研究を新研究による発見によって訂正しながら、「塩屋清五郎とその一族」はじまりはじまり。。。。。

※煎海鼠(いりこ)‥‥能登のナマコは古代より特産品として知られる煎海鼠は、干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)と共に俵物三品として長崎貿易における中国への重要な輸出品であり、流通は幕府の規制を受けた。





注:このウェブサイトでは、塩屋・大野屋の人物の呼称を雅号もしくは屋号のうち最も使用頻度の高い呼称に統一した。しかし、いくつかの例外はあるのでご了承いただきたい。江戸時代の人物は現在の人と違い、TPOに合わせて複数の名前を持っていた。屋号・通称・名・字・雅号・俳号など。例えば塩屋文蔵は、文蔵(通称)・方(名)・方次郎(通称)・木聖香iていがい・号)・松石(号)と分かっているだけでも、今で言う名前が五つもあった。清五郎家が公式に姓を名乗ることが許されたのは明治が目の前の慶応年間だが、江戸時代を通して岩城姓を名乗っている。商売上は塩屋の屋号を使用し、プライヴェートでは岩城姓を名乗っていたようだ。
また、岩城西ダ(土偏に它)のダの字はフォントが無いので陀で代用した。