岩城宗寛

 岩城宗寛とは、七代塩屋五郎兵衛のことで所口町町年寄をつとめた人物である。当時、塩屋一族の重鎮的な存在だったと思われる。唐棣翁・八郎兵衛とも言う。蘭医として有名な京都の医者小石元俊との交際が知られている。横川巴人の『夢』によると、元俊をして「能登に唐棣翁という賢人がある」と言わせたそうである。また、元俊との手紙によると、宗寛は海戦に関する知識が豊富で海中で鎖を用いる戦法などに通じていたことが分かる。文化6年(1809年)に76歳で亡くなり、相生町常福寺に岩城宗寛翁之墓と刻まれた大きな墓が現存している。この宗寛の死後、五郎兵衛に代わって清五郎家が代々町年寄職を世襲していくことになる。



 岩城鑾崖と岩城安義

 岩城鑾崖と岩城安義はともに19世紀、江戸時代後期に大野屋の当主であったと思われる人物である。大野屋は前述したとおり、塩屋一族の最も近い親戚にあたりる家で、18世紀の初めから19世紀の初めころまでの約100年間、所口町の町年寄をつとめる家であった。その居は豆腐町(現在の生駒町)であり、塩屋清五郎家・塩屋五郎兵衛家・塩屋仁左衛門家などと軒を並べていたと推察する。小島町の山の寺寺院群内曹洞宗徳翁寺墓地には大野屋の墓が並んでいる。資料不足で憶測の域をでないが、所口町役人の記録と大野屋墓地の墓石を照合してみると、どうやら岩城鑾崖は町役人として蔵縮下才許、祐筆者などをつとめた大野屋五郎右衛門であり、安義はその子で大野屋八右衛門に相当するのではないかと思われる。
 鑾崖は、長らく穆斎、もしくは楽斎と混同して語られてきたが現在はまったくの別人ということがはっきりしている。徳翁寺墓地で発見された鑾崖の墓の正面には鑾崖宗翁居士と彫られ側面には安義によって建てられたむねが刻まれている。彼が歴史にその名前を残すのは石川郡鶴来の儒者金子鶴村の『能登遊記』よってである。文化13年(1816年)3月鶴村は七尾において岩城鑾崖と横川長洲を訪ねている。鶴村・鑾崖・長洲の三者は時期は違えども、みな京都の学者皆川淇園のもとで学んだ同門の友であった。鶴村は鑾崖を詩文にすぐれた人物だと称し、同門とは言え初対面にもかかわらず意気投合したと見え、出会って初めての夜、二人は朝方まで語り明かしている。次の日の午後は二人で岩屋の霊水を飲みに行っている。当時、岩屋の水は、酒の醸造に最適とされ、七尾には数多くの百軒を超える酒屋があった。鶴村は三年酒についても言及している。三日間の七尾滞在中、鶴村は、鑾崖・長洲と酒を飲み交わしながら経義を談じ、文章を論ずること数度に及び、同門の友と出会った喜びを心ゆくまで楽しんだようで日記には「青山流水調べ自然に和する如し」と書かれている。鶴村について詳しく説明すると、彼は京都から帰郷後、小松の集義堂教授となり、そして、文化元年(1804年)には藩の重臣今枝家の儒者として仕えた人物である。絵についても東陵文亀に学んでいて、『能登遊記』の挿絵にも、当時の和倉、妙観院などの絵を残している。
 岩城安義と推定される大野屋八右衛門は、寺子屋の先生をしていた人物で、徳翁寺の門前には、若林勘左衛門ら弟子たちによって建てられた筆塚がある。筆塚には岩城九皐先生筆塚とあるが、『翁物かたり』(七尾市史資料編第五巻)によって九皐=八右衛門と分かる。町役人としては、町横目列、祐筆列、豆腐町肝煎、東地子町肝煎などを歴任している。










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