西地子町(松本町・富岡町)
江戸時代には松本町と富岡町は共に西地子町と呼ばれていました。所口町の周辺部が新たに町となったのが東と西に位置する地子町です。当初から所口町の一部だった町は本町、それに対して地子町です。土地に対する税金、地銀を徴収されることから地子町という名前になったそうです。本町のほうは地銀を取られないかわりに橋の建設の時などに人夫としてかり出されました。
西地子町の中でも富岡町にあたる地域は、通称「せだ瀬」と呼ばれ、明治3年(1870年)ころまでは寂漠たる海浜に過ぎず小舟の陸上場でした。今では、埋め立てがすすみ、民家が密集しています。
また、天和年間(1681年〜)の手記によると、愛宕山の下にも西地子町の飛地があり、そこは「七間町」と呼ばれていたそうです。
写真は西宮神社です。元もと気多本宮の摂社で澳夷社と称しましたが嘉永2年(1849年)に西地子町に再興され、その後現在地に移転しました。明治5年(1872年)に明治の体制の中で村社に列せられ、改名されました。江戸時代の西地子町肝煎には田中屋喜兵衛や酒屋彌三右衛門らがいます。

ところで、みなさん今出川という川があるのをご存知ですか。富岡町の中をひっそりと流れている川です。川沿いの家には橋がかかっています。ふらり散歩しながら探してみてください。町の中を流れる五本目の川です。












Copyright (C) 2007 All rights reserved by 七尾古写真アーカイブ