−京阪文化人との交流−


 岩城楽斎一家

岩城楽斎の墓 岩城西陀の墓 岩城木聖の墓

 天明8年(1788年)の正月、岩城穆斎こと三代塩屋清五郎が亡くなり二代泰蔵の長男塩屋義蔵が跡を継いで四代塩屋清五郎となった。義蔵は名を豹と言い、字を文卿と言った。墓碑銘から岩城楽斎として知られているのでここでは、楽斎で統一する。
 まずは楽斎の家族構成について確認したい。泰蔵の唯一の男子として生まれた楽斎。彼は妻との間に三人の男子を授かっている。妻は文政6年の過書願(七尾市史資料編第一巻)を見ると、その名をゆみと言う。また、晩年は明々尼と名乗っていたようである。二人の間には長男西陀、次男礼蔵、三男文蔵の三人兄弟が生まれている。そのうち、長男西陀と京阪文化人との交流は、すでによく知られている事実であるが、『新修七尾市史教育文化編』掲載の文書類に目を通してみると、この当時の塩屋清五郎一家のほぼ全員が頻繁に京都へと足を運んで、京都・大阪の文化人たちと交流を持っていたことが分かる。
  京阪での文化人との交流は、初代塩屋清五郎こと岩城
司鱸以来の代々の当主に見られたことではあるが、特に西陀に関しては、好資料が残っているために、その交際の幅の広さが確認できる。最も重要な史料として、西陀が山陽・小竹・元瑞・松蔭・春琴らサロンのメンバーによって詠んでもらった漢詩や描いてもらった絵が収められている『秋風帖』という画帖の存在が知られている。現在の所在は分からないが、中村禎雄氏によるとかつては「わかもと」の社長が秘蔵していたという。影印本が景竹会(明治時代)、京都便利堂(昭和初期)から発行されている。

 主に鷲沢淑子氏のレジュメ(2002年市史を読む会シンポジウムより)と『新修七尾市史教育文化編』を参考にして西陀を中心に清五郎親子と交際関係にあったと思われる京阪文化人サロンのメンバーについて表をつくってみた。鷲沢氏によるとこのサロンは医者である小石家を縁とする病院サロン的なものだったという。清五郎家と京都の医者小石家の縁は穆斎と小石元俊の関係以来、実に4世代にわたって確認できる。清五郎家は代々、小石家を通して多くの文化人と出会っていったようだ。
 以下、当時の岩城家の人々及び彼らと交流があった京阪文化人のプロフィールなどを紹介する。
 
■岩城楽斎‥‥‥名は豹。字は文卿。別名徳居義蔵と言った。泰蔵の長男で四代塩屋清五郎となる。清五郎家としては初めての所口町町年寄となり町役人の頂点に立つ。隠居して長男西陀に家督を譲るも先立たれる。享年66歳。叔父穆斎と同じく京の学者皆川淇園の門人となっている。

明々尼‥‥‥‥楽斎の妻。名はゆみ。伊勢参りに行った記録が残っている。彼女の死の翌年文久3年(1863年)清五郎家の大番頭松屋仁左衛門(俳号:竹塢)によって、小島町妙観院の門の前に句碑が建てられた。
句碑

■岩城西陀‥‥‥名は粛。字は恭侯。別号忘我堂主人・禊川漁人・秋臓園。また、南呂とも号す。楽斎の長男。五代塩屋清五郎となる。町年寄をつとめる。頼山陽など多くの京阪文化人と交流したことで知られる。享年38歳。彼の死に際して、篠崎小竹・浦上春琴・後藤春草等が詩を送っている。

岩城寛太郎‥‥西陀の長男。父西陀の跡を継ぎ六代塩屋清五郎襲名するも療養のため京に滞在中に亡くなる。享年18歳。尼が谷にある岩城宗寛と彫られた墓はこの寛太郎の墓である。常福寺にある岩城宗寛翁の墓は七代塩屋五郎兵衛の墓。

■岩城木聖‥‥‥楽斎の次男。通称茂三郎。または、礼蔵、松堂とも号す。楽斎の次男。七代塩屋清五郎を継いだ。尼が谷の墓石には岩城木聖君之墓と刻まれているが、「木」と「聖」は別個の感じではなく、「木へんにつくりが聖」で「てい」と読むのではないかと思う。大阪の漢学者篠崎小竹の門人帳に名前があることから、兄西陀に同伴して文化人サロンに出入りしていたと思われる。所口町町年寄をつとめ、また、初代清五郎とその妻の100回忌の法事もしている。享年44歳。

■岩城文蔵‥‥‥楽斎の三男。名は方。方次郎とも称した。木聖香iていがい)と号す。木聖高ェ誰であるかについて今まで諸説があったが、木聖高ニは文蔵の号である。塩屋文蔵が屋号で中ノ棚通りに店を構えていた。京都の医者小石元瑞とは親しい関係にあり、元瑞の日記『日省簿』に名前が何度か出てくる。兄西陀・木聖とともに度々上京していたようである。岩城松石翁の墓と刻まれた彼の墓は、相生町常福寺に現存する。慶応元年(1865年)6月死す。


 清五郎家と関係した京阪文化人サロンの面々

名      前 職 業 説                   明
小石元瑞
(1784〜1849)    
医 者 小石元俊の子。京都の医者。漢詩文を能くし、患者であった頼山陽らと京都で文学サロンを形成していた。西陀もその一員であった。元瑞と清五郎家族の交流は、西陀の死後書かれた元瑞の『日省簿』によって明らかになる。楽斎を携え孫清五郎(寛太郎)が訪問し、食事や飲酒したことが記録されている。同じ、天保11年(1840年)秋、弟子安田元蔵により楽斎の死が知らされ、一驚痛惜と書かれている。天保13年(1842年)には京で療養中であった六代清五郎の寛太郎が18歳で亡くなる。その直後から楽斎の三男文蔵が来診。翌年には寛太郎の一周忌の記述がある。翌々年には、七代清五郎こと礼蔵が海鼠を持ってきたとの記述がある。これによって小石家と清五郎家は数代に渡っての深い交際関係にあったことが分かる。七尾出身の弟子に安田元蔵(竹荘)・横川昌元がいる。
頼 山陽
(1780〜1832)
文 人 江戸後期の儒者、史家。安芸国(広島県)の人。名は襄。尾藤二洲に師事。
京都に塾を開いた。詩文書画の名が高く,梁川星巌、大塩平八郎ら多くの文人墨客と交わった。七尾城で上杉謙信が歌ったとされる有名な
「霜は軍営に満ちて」の詩は頼山陽の『日本外史』に拠る。山陽の母の日記である『梅シ日記』に、たびたび岩城西ダが登場し、小石元瑞らサロンのメンバー面々と丸山や木屋町の座敷での舞妓遊びや詩を読んで遊んだことなどが書かれている。そこから、西陀はサロンのパトロン的な立場であると読み取れる。また山陽は西陀のために『秋風帖』に漢詩や山水画をよせたり、西陀宛に書いた漢文の額を残すなどもしている。
篠崎小竹
(1781〜1851)
漢学者 大阪の漢学者。頼山陽が広島から上洛した時最初に頼ったのが小竹だった。小竹は穏健な性格で社交好きでもあったため、関西文化人の中で一目置かれる存在だった。後藤松蔭は娘婿。西陀の弟で七代清五郎を継いだ岩城礼蔵が門人帳に見える。『秋風帖』に漢詩をのこしている。
浦上春琴
(1779〜1846)
画 家 江戸後期の画家。浦上玉堂の長子。名は選。十六才の時父の脱藩とともに江戸へ行き画塾に通った。二十代には京都に在住し、オーソドックスな画風は竹洞に山水は梅逸に迫ると評された。岡田米山人・半江らと深く交友し、詩文も巧みで山陽と深交があった。『秋風帖』に漢詩や絵をのこしている。また、七尾に西陀を訪ねて遊びに来ている。
田能村竹田
(1777〜1832)
画 家 江戸後期の文人画家。豊後の人。名は孝憲。字は君彝。竹田村の岡藩藩医の家に生まれたが医業は継がずに、22歳の時に藩校由学館の儒員となっている。20代から江戸や京坂の文人たちとひろく交流をもった。文化10年(1813年)職を辞してからは、詩書画を中心とする生活にはいり、多くの文人たちと広く交流しながら、中国文人画の正統を学ぶことにつとめた。『秋風帖』に漢詩や絵をのこしている。
後藤松陰
(1797〜1864)
漢学者 美濃の人。 山陽が京都で私塾を開いたときの最初の弟子。篠崎小竹の女婿となり大阪に住んだ。山陽の死後、その遺稿を公判したり、若い弟子達を統率したりした。
小田海僊
(1785〜1862)
画 家 江戸時代後期の画家。名は瀛、字は巨海、通称良平、百谷・海僊と号す。天明5年(1785年)長門国赤間関(山口県下関市)に生まれる。上京して呉春の門に入り、さらに頼山陽に教えを受けて南画に転じた。
岩崎鴎雨
(1804〜1865)
漢学者 近江の漢学者。
頼 聿庵
(1801〜1856)
山陽の子 頼山陽の長子。










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