塩屋一族の系譜 〜塩屋と大野屋〜

 塩屋一族は、本家塩屋五郎兵衛家を中心として、仁左衛門家・四郎右衛門家・清五郎家・味右衛門家・宗兵衛家など多くの分家があった。一族共通の姓は、岩城姓である。塩屋一族の近い親戚にあたる大野屋も同じ岩城姓を名乗っている。塩屋の系譜と同様に、大野屋の系譜にも町年寄など町の要職を勤めたり、京都へ遊学する人物がいる。親戚で姓も同じでやっていることまで同じとくると、両家のルーツ同じなのではないかと考えたくなるのが普通である。しかし、塩屋一族のお手次ぎの寺は相生町の真宗大谷派常福寺で、一方大野屋の檀那寺は曹洞宗徳翁寺と、寺が異なっている。両者に伝わっている由緒も異なるようである。今のところ史料不足で塩屋と大野屋のルーツが同じだと証明することはできないが、塩屋一族と大野屋の歴史はいろいろなところでリンクするので、大野屋の歴史についても紹介させていただくことにする。
           



 
塩屋藤左衛門、七尾に移住す 

 
塩屋一族の祖、塩屋藤左衛門が七尾に移住したのは江戸時代の初めころのようである。塩屋仁左衛門家の伝承によれば塩屋系の先祖は陸前の国現在の宮城県仙台市の出身である。岩城姓を名のったのは陸前国住の岩城氏の一族だったからなのかもしれない。岩城氏は現在の福島県を本拠地とした豪族である。
 七尾へ入った藤左衛門は、御祓川べりの豆腐町(現在の生駒町。当時は川沿いの道は無く、屋敷が川際までせまっていた。)に屋敷を手に入れ、塩屋藤左衛門と名乗った。当時の豆腐町は、七尾(所口)でも裕福な商人たちが住むことで知られていた。後には、五郎兵衛家・仁左衛門家・清五郎家など彼の子孫の多くが、この豆腐町に住した。その中でも、後に本家を上回る繁栄を見せた清五郎家は、現在の中山薬局がある所に位置していたと伝えられている。藤左衛門の行跡について詳しいことは分からない。寛文8年(1668年)に85年の長い人生を終えている。
 一方、大野屋の先祖の伝承は、二代清五郎泰蔵と三代清五郎穆斎の墓碑文の中に見える。大野屋の先祖融源は、尾張の国主(織田信長?)に仕えていたが戦乱の世を憂えて越の国の大野へ移住した。その後、さらに戦乱を避けて能登へ移住してきたのである。融源は七尾へはたどりつけなかったようで、墓碑文は融源の子久庵(大野屋六左衛門)の代になって七尾所口に移住したと伝えている。
 以上のとおり、二つの伝承を比較するかぎりにおいては、塩屋と大野屋は全く別々の一族のように思える。
塩屋は、何度も何度も大野屋との養子縁組を繰り返していて、そこから、初めはどちらか一方が岩城姓を名乗っていたのだけども、養子縁組をしていく中でどちらも岩城姓を名乗るようになったのだろうかという仮説が頭に浮かぶ。それとも両家とも元々別々に岩城姓を名乗っていただけなのだろうか?それともやはり、両家はもともと一つの一族だったのだろうか?
 分からないことは分からないことのままにしておいて、これから塩屋の歴史を順にたどっていくことにする。

    










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