−初代清五郎−



 岩城長羽
 
 岩城長羽と司鱸、同時代の七尾を生きた二人の俳人。前者は、五代目塩屋五郎兵衛として後に町年寄を勤めた人物であり、後者は大野長久の養子で四代目塩屋五郎兵衛こと塩屋名兵衛の養子に大野屋から入り、初代塩屋清五郎となった人物である。この二人は共に俳諧に秀でた従弟同士であった。共に大野長久の孫、養孫にあたるということから、長羽と司鱸のどちらが前出『俳諧三年草』の序を記した岩城亀助であるかは、中村禎雄氏の研究『塩屋清五郎家系に関する一考察』(『新鵜』3号掲載)以来の課題であった。
  最近判明した司鱸の生没年(1965年〜1753年)から考えると、「俳諧三年草」上梓当時の司鱸の年齢がまだ9歳であり、それでは亀助であるには幼なすぎると思われる。よって、大野長久の実の孫である長羽が亀助であると結論づけられる。
 岩城長羽は、談林派であった祖父大野長久とは違い、次に紹介する司鱸と同じく芭蕉の門人支考の門下であったようである。享保八年の支考著『和漢文藻』に司鱸の句とともに長羽の句が掲載されている。そして、宝永年間(1704~1711)から享保年間(1716 ~1736)にかけて多くの俳書に長羽の名を見ることができる。長羽が、当時の七尾俳壇の中心人物として活躍していたことは想像に難くない。
  『七尾の地方史』13号掲載の『小島新生家文書』によると暮柳舎希因から長羽宛の書簡が残されている。延享2年(1745年)の八月に、当時希因の弟子であった建部綾足が能登旅行に行った。その時、旅に出ていた司鱸の代わりに綾足の世話をしたのが長羽であった。暮柳舎希因から長羽宛の書簡は、綾足が世話になったとの礼と長羽からの依頼についての返事で構成されている。暮柳舎希因は伊勢派俳人の第一人者と仰がれる北陸地方の重鎮であった。その門からは麦水・二柳などの俳人が輩出している。この書簡は、中央俳壇と七尾の俳人の交流を示すものとして貴重だと言える。
 商人としての長羽は、所口町町年寄塩屋五郎兵衛として七尾の町政の中心を担った。 彼は塩屋一門から出た最初の町年寄である。塩屋一門の隆盛をつくる地盤を確かなものにしたのは、この岩城長羽こと五代目塩屋五郎兵衛ではないかと思う。
 長羽に関してはこれ以上資料がないので、ここからは司鱸に焦点をあてていこうと思う。



岩城司鱸こと初代塩屋清五郎
  
康工編『俳諧百一集』より 清賞堂華雄像画

 岩城司鱸
 
 
 
司鱸は三代目の大野屋当主、六左衛門の子として七尾に生まれた。塩屋名兵衛の養子となり塩屋清五郎を名乗っている。三代目塩屋宗家大野長久の跡継ぎであった長男塩屋宗五郎(大野良長)が若くして亡くなってしまったために、塩屋仁左衛門家から大野長久の養子として塩屋名兵衛が塩屋五郎兵衛家の四代目を継いでいるが、五代目は宗五郎の息子と思われる長羽が継いでいる。五代目の継目に関して、なにかしら約束事があったようだ。長久の実の孫である長羽が五代目を継ぐことがあらかじめ決まっていたのかもしれない。名兵衛は親戚筋の大野屋から司鱸を養子として自分の系統を清五郎家として存続している。
  ともかく司鱸は大野屋から塩屋名兵衛の養子に入って塩屋清五郎家の初代となった。司鱸の人生については次の項で紹介している司鱸の子どもたちの墓に彫られた碑文などから知られる。
  司鱸こと初代塩屋清五郎は、名を令徳、字を代明といった。学問を好み剛直で知られ、その名声は藩士たちの間でも聞こえた。妻は高桑氏の出であった。 先にも書いたが、司鱸は俳人としては松尾芭蕉の弟子の各務支考の門下であった。明和元年上梓の『俳諧百一集』にはその肖像と「雉子鳴いて石もの云はぬ山路かな」の句が載っている。また司鱸は、俳文『百物語』の序文を書き、『百合野集』の跋を書くなど俳人としてかなりの活躍をしていたようである。俳人としての司鱸に注目した著作に、奥野美友紀著『岩城司鱸覚書 綾足の俳友 』(『都大論究第40号』)がある。この著作では、諸国を旅して俳句・片歌・和歌・読本・国学・紀行・物語・随筆・絵画などに才能を発揮した異才の国学者として知られる建部綾足の友人としての司鱸が紹介されている。綾足作『紀行梅の便』中の住吉神社の宝の市のエピソードを引用して書かれている部分では、綾足がかつて俳句の手ほどきを受けた野坡の高弟である真面目な風之が黙って希因の元へ走った綾足に対して、激怒し立ち去る姿を見ておかしさがとまらずよだれを流して笑う豪快かつ陽気な司鱸の姿が紹介されている。そしてそんな司鱸の性向に共感を覚える綾足。「人ノ才をタタカハシムルコトヲコノ」む司鱸は、綾足にとって忌憚無く交わることの出来る友人であったようだと奥野氏は述べられている。また、司鱸を師として仰いだ者もあったとして芭蕉旧跡として知られる浄春寺金龍庵庵主であった馬明が紹介されている。馬明は七尾の生まれであり、同郷の代明すなわち司鱸がきっかけとなって俳諧の道に入り、俳号をも与えられ、後に希因門を経て鳥酔に師事したらしい。そのため、金竜庵には、芭蕉を筆頭に、其角・去来・丈草・支考ら蕉門俳人の位牌に交じって司鱸の位牌もあったらしいと述べられている。
 これ以外にも、七尾に赴いた支考と対面したりと、当時の文化人と司鱸の交流は数多くあったにちがいない。さらなる研究が待たれる。
 商人としての司鱸は、能登一円の煎海鼠を扱う煎海鼠問屋として長崎への販売を独占していたことで知られている。当時煎海鼠は、長崎での中国との貿易における主要品目の一つであり、司鱸は幕府御用商人として莫大な収益をあげ、一気に七尾を代表する豪商へとのしあがった。商用で頻繁に長崎や京・大阪へと向かい御用商人として多忙な生活を送る商人塩屋清五郎のもう一つの顔が俳人司鱸である。当時は現在とは違い、海運が交通の中心であった。能登から船で大阪もしくは長崎の俵物会所まで荷を運び、その帰り道に大阪・京の町の文人たちが集うサロンで魂の休暇をとる司鱸の姿が目に浮かぶ。




各務支考(かがみしこう)‥‥‥松尾芭蕉の弟子で蕉門十哲の一人。

希因‥‥‥綿屋希因(わたやきいん:1688〜1750) 、金沢の俳諧師。暮柳舎。

※煎海鼠(いりこ)‥‥‥能登のナマコは古代より特産品として知られる。煎海鼠は、干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)と共に俵物三品として長崎貿易における中国への重要な輸出品でもあり、流通は幕府の規制を受けた。




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