岩城泰蔵

 岩城泰蔵、穆斎兄弟については、今まで石川県史、鹿島郡史、七尾市史など数多くの書物の中で紹介されてきた。『新修 七尾市史(教育文化編)』でもとりあげられている。しかし、七尾市民のあいだでの知名度はまだまだである。二人の墓は200年余りの風雪の中を耐え小島町尼が谷に現存している。それぞれ何百字も彫ってある碑文を今でもはっきりと読むことができるほど状態がよく、二人の墓を前にすると碑文が彫られた江戸時代当時の七尾を感じられる気がする。兄、岩城泰蔵の墓碑文は九州筑前の儒者亀井道載によるものであり、弟、穆斎の墓碑文は京の学者皆川淇園によるものである。両者とも当時の日本有数の学者である。佐々波與佐次郎氏がこれらの墓碑文を「廻船業岩城清五郎」(『能登風土記』)のなかで直訳されているので機会があれば是非一読していただきたい。それでは、墓碑文に書かれた行跡を中心に岩城泰蔵・穆斎兄弟を紹介させていただく。

 岩城泰蔵は初代塩屋清五郎こと岩城司鱸の長男として七尾で生まれた。名は白。字は子明。泰蔵は若いころ父に勧められて、読書に励むなど勤勉な性格であり、また、心が外に表れるがごとく容姿にも優れていた。父は煎海鼠の御用商人として大きな成功を収め、文化人としても高名な人物であったが泰蔵が20歳のころ亡くなってしまった。泰蔵は20歳にして二代塩屋清五郎として大きな重責を担うことになった。家業を継いだ当初は、資金を貸してくれる人も見つからず、なかなか事業がうまくいかなかった。そして、好きな芝居などの演芸に通いつめているうちに家業を傾けそうになったりもした。しかしすぐに心を改め、以前のように経書を読むことに励んだ。碑文によると「商をなすは業なり、道を学ぶは志なり、もし風雲をふんでもってその志を行わんか、われあに一富家の翁で終わる者ならんや」と誓っている。商いのために京都、大阪、長崎と往復し、行くところところで名のある人物と交友し、また教えを乞うた。自らには厳しく、人には恭しく、使用人に対しては寛容な態度で接したという。ある時、長崎へ煎海鼠を載せた船を送ったが嵐にあって沈んでしまった。その報せを受けた時、泰蔵はちょうど自ら琴を製造していた。使用人たちがおろおろする中、のみ、かなづちを操って自若としていた。それを見て、一度に10年がかりの計画を失ったといってもよいほどの損害を受けて憂慮しない者などいるはずがないと風刺して言う者がいた。後に泰蔵は、おもむろに顧みて言った。「海にしたがって商売すること数10年間。このような事故も起きて当然のことだ。私は憂うよりも、これからどうするかをじっくりと考えているのだ」と。また、義よりも利益にばかりとらわれることの愚かさを説いて「我われ人間は人情として事故や災いが少ないことを望むものだ。不注意で事故が起きるのは仕事として利益ばかり求めるからだ。金を儲けることを第一として義を忘れているからだ」と言うと使用人たちは皆喜んで泰蔵に従ったという。隠居するにあたって、泰蔵には男の子どもがいなかったので弟の穆斎を養子として家業を譲った(しかし、後に長男が生まれる)。のち安永5年(1776年)に44歳で亡くなり、手次ぎ寺常福寺の住職釈祐貞が釈宗光と法名をおくっている。泰蔵の交友関係については記録がほとんど残っていないので詳しいことはわからない。しかし、弟穆斎を福岡の友人亀井南冥の弟子にしていることから、商用で長崎、大阪に行く機会を利用して各地の知識人と交流関係にあったであろうことは想像にかたくない。泰蔵の墓に刻まれた碑文は、穆斎が泰蔵の死に際して泣いて兄の行状を記して遠く福岡まで走り、南冥に依頼して書いてもらったものである。


 

小島町尼が谷にある岩城泰蔵の墓

   墓石の三面に彫られた墓碑文   
 

 岩城 穆斎

 名は真。字は公淳という。穆斎は27歳の時に兄の跡を継ぎ三代塩屋清五郎となった。
「所口の賢人」と称えられ義商として藩から表彰されたことで有名な人物である。ある年の大阪で海鼠の時価が急騰して莫大な利益を得たことがあった。その時彼はそれを自分だけのものにせず地元の漁民たちに分け与えたので、みな彼の徳を讃えない者はいなかったという。また、天明5年(1785年)の夏、長崎における幕府の官庫の役人春梅次郎氏春という人物が幕府に上申して「塩屋清五郎という者が幕府と漁民の間にはいって莫大な利益を独占しているのは幕府にとっても漁民にとっても不利なことである。だから直接漁民から買上げる方がよい」と主張して、ついに幕府の許可を得た。そこで春梅次郎自身が七尾に出張し、江戸幕府の役人立会いの上で、七尾沿岸の漁村民を召集して塩屋の手を経るのと直接幕府へ納めるのとどちらの方が便利であるかを聞いたところ、漁民皆そろって旧来のように塩屋経て納めるほうが便利だと言って直接納めることを願わなかったので、塩屋は家業を失わずにかえって名声を高め、金沢の藩士たちの間にも評判となり、郷人に深く尊崇されるようになった。これに反して春梅次郎は面目を失って切腹して罪を幕府に謝したが、穆斎はその死を憐れんで厚くこれを葬って碑を建て毎年その法要を営んだそうである。碑は長福寺にあると言い伝えられている。また、穆斎は初め京都の岡白駒に学び、その後、福岡の亀井南冥の教えを受け、30歳の時には、京の儒者皆川淇園の塾に入門し長く学んだ。毎年、大阪の官庫に煎海鼠を納めた後四五か月は京に留まり学び、七尾に帰っては、自ら私塾を開き子弟の教育に尽くし、その門下生を淇園に入門させもし、大勢で京都へ行くこともあったという。七尾の文化・教育に大きく貢献した穆斎であったが謙遜で少しも誇るところがなかったという。十一代藩主前田治脩は、穆斎に対して租税を免じて町年寄にあげ、黄金を賜いて褒賞したそうである。天明7年(1787年)に病に倒れ、友人である京都の蘭医小石元俊の往診を受けるも翌8年(1788年)1月31日享年42歳で亡くなっている。法名を宗空という。



岩城穆斎の墓 

側面 碑文が彫られている




亀井南冥‥‥‥(1743〜1814)江戸時代中期の儒学者・漢詩人。筑前(福岡県)の町医者の家に生まれる。名は魯、通称主水、字は道載。抜擢され、福岡藩の侍講となった。「政事」と「学問」の一致を説いた。

皆川淇園‥‥‥江戸中期の儒学者。京都で儒学の講義を開始し、門弟1313人の名前が門人帳にかぞえられる。文化三年(1806年)私立大学の 先駆ともいうべき弘道館を京都に設立した。

 





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